子どもができてからというもの、涙腺が弱くなった。
朝のニュースさえ見れないくらいだ。アナウンサーの無機質な声で、虐待のニュースを読まれた日には朝から、つーっと涙が出てくる。
昔読んだリリー・フランキーの著書、東京タワーの一節で、人は汚れてくると涙もろくなると書かれていたことを思い出す。
確かに、子どもの頃は物語が悲しくて泣いたことなどほとんどない。
テレビで柴田理恵がフランダースの犬の最終回シーンを見て泣いていたのも不思議なくらいだったのに。歳をとるとは不思議なことだ。
子どもができたら読み聞かせしてあげたいとずっと思っていた絵本があった。その為、その本を子どもが生まれてすぐに購入した。
おおきな木という本である。
小説家としても有名な村上春樹氏が日本語訳を担当している。
なぜ、その本が欲しかったのかというと、中学生の時の国語の先生が紹介してくれたのだ。
ストーリーの登場人物は小さい男の子と大きな木である。
小さい男の子と木は仲良し。
最初はかくれんぼをしたりするただの仲良し。
ただ、だんだんと男の子は成長していく。しかし、木はほとんど成長していかない。
すると、だんだん男の子は木と遊ぶことよりも友達と遊ぶことを優先し、木に会いに来なくなります。
しかし、男の子はお金が必要と木に相談したり、結婚するから家が必要と言ったり、自分が困ったときだけ、木の元を訪れるようになる
そのたびに木は、自分になったリンゴの木を全てあげてお金にしなさいと言ったり、自分を切って、その木で家を建てなさいと言う。
木はいつでも男の子が大好き。
そんな木に気持ちを持っていかれ、いつも読んでいるとページが進むにつれ、涙声になってしまう。
ここではオチは書かないが、ラストまで読むとかなり考えさせられる。
どう、読み取るかは個人の自由だが、私はこの関係性は親と子のように思う。
なんでも親がしてあげれば良いものではない。お金が必要であればお金をあげるのではなく、お金の稼ぎ方を教えなければならないのだと私は思った。
他人を見る分ではそう思えるのだが、実際、自分はどうなのだろう。
まだ、子どもは1歳になったばかりなので、できることは少ないが、毎日イタズラとチャレンジの狭間を行き来しているようにも感じる。先日も、旦那のイヤホンを金魚の水槽にいれていた。水槽には蓋をしているのだが、
ご飯も私が今はスプーンを持って子どもに食べさせている。子ども自身にさせると、まだうまくすくえないし、食事後の後片付けが嫌になるからだ。
米ほど掃除しにくいものはない。テーブルクロスで拭くと米は潰れ、テービルにひっついてしまう。
床も同様である。何回スリッパで米粒を踏んだことか。
そんなこともあり、まだ、子どもには自分でさせてはいない。
そろそろ食べる練習もさせなければな、とは日々思っている。
汚れても、見守って、自分でさせなければ。
子どもには子ども自身にさせる。自分は見守る。
これからさらに成長していくと、それはさらに難しくなりそうだ。
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